NUCLEAIRE
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たんぽぽ舎です。【TMM:No1975】
2013年9月28日(土)地震と原発事故情報-5つの情報をお知らせします
転送歓迎
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★1.金の為の再稼働、断じて許さない!
東電の安全審査申請徹底糾弾!
=柏崎刈羽からの緊急アピール= 刈羽村議会議員 近藤容人
★2.「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識-20
首都圏の地震 少ないのは異例
人は一生の間に何度の大地震を体験するものだろうか
島村英紀(地震学者)
★3.10月2日(水)学習会のお知らせ
講師:朝日新聞編集委員 服部 尚さん
=チェルノブイリ原発、27年経った今も廃炉のメド立たず=
★4.メルマガ読者からイベント案内(問い合わせは主催者へお願いします)
講演 なぜ脱原発が必要か考える 10月6日(日)
=元原発プラント技術者の堤言=
★5.新聞・雑誌より2つ
◆「福島に関心持ち続けて」 ビキニも翌年 風化始まった
フォトジャーナリスト「つなぐ」活動
(8月17日毎日新聞より抜粋)
◆水爆落下 大惨事寸前 広島型原爆の260倍 米国公文書
61年、米南部飛行中のB52から (9月22日東京新聞より抜粋)
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※9月30日(月)JCO臨界事故14周年
追悼(朝)と集会(夜)へご参加下さい
1.追悼と抗議行動 10時より11時まで経済産業省別館前。
参加団体アピールと事故時間の追悼、献花。
経済産業省への申し入れ。
2.夜の記念講演会 18:30開場 19:00-21:00
会場:「スペースたんぽぽ」 資料代:800円
1 基調報告:渡辺寿子「裁判から見えたJCO臨界被曝事故の真実}
2 活動報告:『もう作らないで核燃料』(団体名)による「身近な核施設』
3 講演:山崎久隆「核の事故、負の連鎖、そして将来への危機」
(汚染水問題もふまえて)
質疑応答と、団体アピール
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┗■1.金の為の再稼働、断じて許さない!
| 東電の安全審査申請徹底糾弾!
| =柏崎刈羽からの緊急アピール=
└──── 刈羽村議会議員 近藤容人
平成25年9月27日(金)
柏崎原発反対地元三団体
文責 刈羽村議会議員 近藤容人
東電は、福島第原発事故(レベル7)のあとしまつも、汚染水の新たな事故(レベル3)、そして被災者の救援も全く行わない、メドすら立たない。にもかかわらず、柏崎刈羽原発6・7号機の安全審査申請を行いました。
これは、金の為であり、「電力の安定供給の為」などと言うのはまっかなウソです。
東電は、10月に約800億円の融資借り替えをひかえており、これができなければ、一挙に破綻してしまう恐怖にかられての暴挙です。東電はもはや完全に追い詰められガケップチに立たされているのです。我々柏崎刈羽の住民は、東電の「インペイ」「カイザン」「ネツゾウ」に何度も何度も泣かされ、煮え湯を飲まされてきました。我々住民は絶対東電を許しません!
『東電きょう審査申請、知事は条件付きで承認、ベント協議は継続』これは、9月27日(金)の新潟日報一面トップの記事です。「承認」とは東電が規制委に安全申請を行うことと、ベント協議を同時並行的に行うことを認めはしましたが泉田知事は安全協定に基づく事前了解を与えたのではありません。ただ、安全審査申請を『承認』 したことは、東電にとっての一歩前進であり、このことに対しては極めて残念であります。遺憾千万であります。これは、行政の長としての限界であり、我々運動サイドの弱さ、又、右翼安倍政権の強力な恫喝の結果であります。
我々は、知事を見捨てるのではなく、我々の運動の内容を点検し、国民の85%が脱原発という潜在的だが圧倒的な力を組織し、そのエネルギーをひきだし、知事を更にひきつづき支えてゆくべきと考えます。知事は『福島の事故の検証が終わらない限り再稼働の議論はない』と一貫して主張しており、『県技術委員会に東電に入ってもらう、 東電が修正に応じなければ、今回の承認は無効となる』とも主張しています。安全協定の尊重を東電に認めさせ、更に踏みこんで、『住民の被ばくがどんな状況でも、絶対避けられることが必要だ』、事前了解を与える最低の条件をこの様に断言している。
申請により、4号機以外他の全ての号機真下の活断層が焦点となります。規制委や東電を監視し、デタラメな結論を出させないようにする為にも大衆運動の強化拡大が必要です。
地震国日本、いつどこでM8・震度6以上の地震が来ても不思議ではない。特に福島第一をおそったらどうなるだろう。東電を絶対許さない!我々は、福島を忘れない!福島と連帯して闘います!全国の現地住民と連帯して最後まで闘います!
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┗■2.「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識-20」
| 首都圏の地震 少ないのは異例
| 人は一生の間に何度の大地震を体験するものだろうか。
└──── 島村英紀 (地震学者)
○大正時代までの首都圏では、人々は四、五回以上の大地震を経験することが多かった。
私の友人は何世代にもわたって東京の下町に住んでいるが、その家には曾祖母の言葉が言い伝えられている。「大正関東地震(1923年)の揺れは大したことはなかった、前々回に書いた安政江戸地震(1855年)のほうがよほどすさまじかったよ」という言葉だ。曾祖母はこのほか前回に書いた東京地震(1894年)も体験していた。
曾祖母は関東地震のあと、東京が炎上するさまを見ながら「安政のときは揺れはすごかったのにこれほど燃えなかったのにねえ」と言っていた。都市化することは、たとえ同じ大きさの地震に襲われても「震災」が大きくなることなのである。
たしかに、東京の下町の揺れは、直下型地震である安政江戸地震のほうがすさまじかった。また直下型ゆえ、短周期の強い揺れが特別に大きかった可能性が高い。
当時はいまよりも日本人の平均寿命ははるかに短かった。それでも一生の間に何度も大地震に遭ったのである。
○じつは首都圏の地震は、大正関東地震以来、不思議に少ない状態が続いている。
厳密に言えば、大正関東地震後6年間だけはM6クラスの地震で東京で震度5の地震が3つあった。
しかしそれから大地震がぱったりなくなった。約60年後の1985年の茨城県南部に起きたM6.0の地震まで震度5を感じたことは一度もなかったのである。その後も2011年の東日本大震災のときの5強まで2回しか震度5がなかった。
だが大正関東地震以前は違った。江戸時代から大正時代には、地震ははるかに多かった。江戸時代中期の18世紀から24回ものM6クラス以上の地震が襲ってきていたのだ。平均すれば、なんと6年に一度にもなる。
以前、元禄関東地震(1703年)の話をした。大正関東地震の「先代」で、同じ海溝型地震である。じつは、この地震の後も数年の間だけ大地震が続いた後、ぱったり地震がなくなった期間が約70年ほど続いたのだった。
そして、その「休止期間」のあと地震が増えて、24回もの大地震がたびたび襲ってきたというわけなのである。
大正関東地震から90年たった。もし元禄関東地震のあとで何かの理由で「休止」したとすれば、やはり海溝型地震である大正関東地震でも同じ理由で「休止」した可能性がある。今は「休止」がそろそろ解けだしたとしても不思議ではない時期に入っているのである。
地球物理学的に考えれば、首都圏が大正関東地震以来「静か」なのは異例だ。むしろ、もっと地震が多いのが普通なのである。(『夕刊フジ』2013年9月27日)