NUCLEAIRE
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たんぽぽ舎です。【TMM:No2254】
2014年8月20日(水)地震と原発事故情報-3つの情報をお知らせします
転送歓迎
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★1.8/31「たんぽぽ舎25周年のつどい」へ
全国からのメッセージ (その1)
伊方から、鹿児島から
★2.-核の廃絶を目指して 台湾特別編-
映画「こんにちは貢寮(コンリャオ)」上映
講師:陳 威志(たん うぃち)台湾出身 一橋大学博士課程
西村俊弘(講座運営委員)
★3.新聞より5つ
◆福島第1 トレンチ凍結 失敗 東電、止水材投入へ
(8月20日茨城新聞より抜粋)
◆川内再稼働「反対」57% 時事通信調査 内閣支持率は43%
(8月15日東京新聞より抜粋)
◆子に負の遺産 渡せない (8月16日東京新聞「金曜日の声」より抜粋)
◆原発PR施設「聖域」扱い 利用者減でも福島以外存続
豪華設備、運営費は電気料金 「合理性ない出費」
(8月15日朝日新聞より見出し)
◆非核 原爆も原発も (8月16日朝日新聞「戦後70年プロローグ」より見出し)
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┗■1.8/31「たんぽぽ舎25周年のつどい」へ
| 全国からのメッセージ (その1)
| 伊方から、鹿児島から
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◆伊方原発50km圏内住民有志の会 堀内 美鈴
3.11の後、早期再稼働が心配される伊方のために、「二度と原発事故を起こしてはいけない。」 「伊方が動けば他の原発も次々と再稼働されてしまう。」と、被害地の福島県をはじめ北海道から九州まで、全国の皆さんが何度も応援にかけつけてくださいました。本当に有り難うございます。一か所一か所、一人一人は小さくても、全国の原発現地、電力消費地のみんなが知恵と力を合わせれば、必ず、いま、原発を止められます。
原発のない社会に向かって歩き出すことができます。
その一歩となるように、精一杯みなさんと頑張り抜きます。
どうぞ宜しくお願いします。
◆鹿児島市 のぐち英一郎
みなさま こんにちは!
火山地帯に暮らす再稼働筆頭の鹿児島から反原発自治体議連の野口です。
地道な運動の成果を感じる中で、再稼働は早くても年越しの見込み。いつも貴重な情報と度々の鹿児島入り!本当に有難うございます。
こちらは内実稀薄を隠すかのような418ページ審査書案とにらめっこの台風シーズンです。5月には基準地震動(耐震設計の要を担ってきた入倉氏がそれはあくまで平均、あとは経営判断と新聞紙上で明言)をメインとした緊急の運転差し止め仮処分も申請しました。
「大飯判決を覆せない限り再稼働はあり得ない」などの当方弁論に、裁判長から丁寧な質問がなされ、責任たらい回し首長への残念を司法の判断への期待に気持ち切り替えています。2010年には世界最大級の3号機増設も目前でした。その緊迫のさなかに起きた3・11東日本大震災。現在増設は凍結状態です。
8月3日に屋久島から北西12キロに位置し、135人が暮らす口永良部島が34年ぶりに噴火しました。
火山と地震と避難計画を要点と位置づけ原発の無い平和な暮らしの実現にこれからもご一緒しましょう。 (続く)
※「たんぽぽ舎25周年のつどい」は、
8月31日(日)13:15開場、会場は、東京、全水道会館にて。参加歓迎。
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┗■2.-核の廃絶を目指して 台湾特別編-
| 映画「こんにちは貢寮(コンリャオ)」上映
| 講師:陳 威志(たん うぃち)台湾出身 一橋大学博士課程
└──── 西村俊弘(講座運営委員)
8月9日(土)台湾第四原発反対運動の記録映画「こんにちは貢寮」の上映会を開催いたしました。
○ 映画の粗筋の前に台湾の状況の流れを追ってみます。
1979年 一党独裁体制であった、国民党の政権が揺らぎ始めた。
1980年 新北市貢寮に台湾第四原発を建設する計画が浮上した。
1986年 民主進歩党創設。
1987年 自力救済デモが多発し、クーデターを恐れた国民党は戒厳令を解除。
1988年 住民組織結成。
1990年 この年より毎年一万人規模の反核デモがおこなわれる。
1992年 初めての国会議員選挙が行われ、民進党大統領が誕生。
大統領が第四原発建設中止を命令、議会は国民党多数のため阻止される。
2000年 この年からデモはほとんどおこなわれなくなった。
初めて政権交代し、第四原発建設中止、非核国条例を宣言するが三ヶ月で撤廃。
2008年 国民党が政権を取り返す。
2011年 福島原発事故が起爆剤になりデモが再燃。
現在、第四原発の工事は凍結されている。
○ 1998年 一人の女子大学院生が反原発運動の記録映画を作製するためカメラを持ち立ち上がる。
映画は台湾北部貢寮の美しい海岸線のドライブ映像から始まる。崔(ツイ) スー欣(シン)(スーの漢字が文字化けしますのでカタカナ表記させていただきました)監督の澄んだ声がナレーションを奏でる、ナレーションは源さんへの呼びかけの形式をとっている、源さんとは、物語のキーマン林 順源の事である。
1991年10月3日 第四原発の建設予定地でデモがおこなわれた。デモ隊の 林 順源は車に乗ってフェンスの前にいた。警官隊がデモ隊を蹴散らし林の車を取り囲んだ。突然フェンスの扉が開いた。林はフェンスの中へ車を進めた。警官隊が車に襲いかかりフロントガラスを殴打した。
フロントガラスは蜘蛛の巣状にひび割れ視界が奪われた。慌てた林は車をユーターンさせようと試みたが一人の警察官をはね、死亡させてしまった。
悲しい事故であったが計画的な殺人として起訴され、林は服役した。
1003事件以降、反核運動は空中分解した。
1994年、政府は貢寮漁民の漁業権を剥奪した、怒った住民は台北でデモを行った。10年間に亘る抵抗運動も虚しく、建設は阻止できなかった。その後反核運動は停滞し、台湾で一番美しい海は見る影もなくなった。
1999年3月15日、原発工事で蛇行する河川を真っ直ぐに削り取ったために、河川の全生物が死滅し洪水が多発した事に抗議し、漁民がデモを行った。
1999年6月、原発工事の敷地内でケタガラシ族の貝塚遺跡が見付かった。
自救会は遺跡保存を求めて、工事中止の陳情をした。
2000年、大統領選挙が行われ、反核を公約にした民進党が勝利し一党独裁を続けてきた国民党が政権を失った。しかし民進党は公約を反故にした。
2001年、漁民のデモが行われ、抗議のため焼身自殺者まで出てしまったにもかかわらず、原発建設は続行された。
貢寮の住民は台湾の住民全員が受けるべき苦難、苦痛を一身に背負わされた。
映画は仮出所した源さんと貢寮住民の再会場面、2004年で終わる。
台風が近付くなか、50人の参加者が集まり終了時間が延長される大盛況であった。