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たんぽぽ舎です。【TMM:No1684】
2012年12月7日(金)その2 地震と原発事故情報-4つの情報をお知らせします
転送歓迎
━━━━━━━
★1.大飯原発を止めさせるポイント(たんぽぽ舎 槌田敦)
★2.原発を続けるのか、やめるのか?
「原発をやめる人と政党を」全力で応援しよう!(たんぽぽ舎 柳田真)
★3.新聞・雑誌から
◇「嘉田新党」を考える
「真の第三極」が現れた。「偽りの第三極」ではなく。
(12月3日 毎日新聞「特集ワイド」より)
★4.<テント日誌12/5―経産前省テントひろば462日目>
深夜のテントに伝えられた死(M/O)
━━━━━━━
┏┓
┗■1.大飯原発を止めさせるポイント
└────(2012年12月9日 たんぽぽ舎 槌田敦)
日本の原発54基の内、大飯原発の2基だけが運転している。なんとしてでも、
原発を維持したい連中の執念の現れである。それだけに無理が目立つ。
現在の攻防戦は、「原発の直下に活断層があるのかどうか」をめぐってなされ
ている。それは、もしもこれが動けば、原子炉の配管が千切れるからである。
しかしながら、活断層かどうかの決め手が分かり難い。
断層の上に乗っている土砂の状態(生成年数など)から判断するのだが、この
調査を関電がするのでは、泥棒に縄をなわせるようなものだ。関電は故意に間
違えたことにして、結論を先送りさせている。このようにして、来年8月の定期
検査終了まで運転を続けるつもりでいる。活断層問題は、関電の巧妙な戦術に
乗せられている。
地震の問題は、活断層だけが問題ではない。今回の福島事故は、遠方の太平
洋沖の地震で起こった。これによって原発がどのように破損したかが、福島事
故の出発点である。ところが、4つの事故調はともにその事故経過を曖昧にし
ている。
たとえば、福島原発1号機の水素爆発では、この原因となった水素は地震に
よる配管破断で漏れ出した水素ということになると、原子炉の地震による安全
性の主張は根底から覆えされる。大飯原発の場合に、遠方の地震で配管が破断
するのかどうか、検討がなされる必要がある。しかし、これが棚上げされてい
る。
福島の事故で、福島や郡山の市民が大量被曝した原因は、格納容器のベント
(排気)である。そもそも格納容器とは、第四の壁であり、これで放射能の放出を
防ぐ容器である。燃料ペレットの壁、燃料被覆管の壁、原子炉圧力容器の壁の
3つが壊れても、第四の格納容器の壁で防ぐというのが、原子炉安全の考え方
であった。ところが、福島事故では、格納容器の圧力が高くなって破裂すると
いうので、ベント(排気)した。安全思想の崩壊である。
その対策でもっとも有効な方法は、同じ大きさの第二格納容器をつくって格
納容器の圧力を半減し、水で冷却することである。しかし、これには金がかか
る。そこでフィルターを使って、放射能を吸着させてから排気筒から大気に放
出するという。
しかし、この建設には時間がかかるとして、今回の運転再開では無視された。
つまり、福島事故は考慮の外である。大飯ではベントで放射能を除けないのだ
から、その運転再開は無謀である。
福島原発事故で、作業員を退避させないで済んだのは、放射能対策をした免
震事務(重要)棟があったからである。これは柏崎地震(2007年)で、余震の最中
に職員の作業する場所がなかったため、東電は免震事務棟を福島に建設した。
それが完成したのは地震の半年前で間に合った。ところが、関電にはこの免震
事務棟はない。それなのに運転再開した。関電と民主党政府は福島事故から学
んだことも無視して、大飯の運転を再開した。
そして、福島事故は原発から50キロも離れた郡山市、福島市の人達に、放射
線作業従事者の被曝水準(年間1ミリシーベルト)をはるかに超える被曝をさせ
た。しかし、維新の橋下は土壇場の5月末に「豹変」し、福井県、滋賀県だけで
なく大阪府や京都府も放射能が襲う運転再開を容認した。維新の「脱原発」はま
やかしである。この「決断」を受けて民主党政府は、大飯の運転を許可したので
あった。
未来の党を中心にして原発に賛成しない政党に期待しよう。
衆議院選挙の判断基準は、
「民主にはガッカリ、自民にはコリゴリ、そして維新のウラギリ」だ。
┏┓
┗■2.原発を続けるのか、やめるのか?
│ 今回の衆院選と都知事選の最大争点
│ -「原発をやめる人と政党を」 全力で応援しよう!-
└────(たんぽぽ舎 柳田真)
今回の選挙は昨年の3.11原発大震災を経て、はじめての国政選挙。プラ
ス都知事選挙。選挙の最大争点は、原発を続けるかやめるか、どちらを選ぶか
です。あの原発大災害を経てもなお、原発を続けることは異常です。子ども=
未来への罪悪だと思います。次の地震が来て、第二の大災害が起きれば、日本
は崩壊するでしょう。生命、土地あっての経済です。生命も土地も放射能汚染
されてどうして「経済」が成り立つのですか?
都知事選と衆院選では原発ゼロを主張する人と政党を応援しよう!
┏┓
┗■3.新聞・雑誌から
└────
◆「嘉田新党」を考える
「真の第三極」が現れた。 「偽りの第三極」ではなく。
(12月3日 毎日新聞「特集ワイド」より)
「真の第三極」が現れたと言えるだろう。「真の」とは、脱原発を求める国
民の声に寄り添い、将来のビジョンを打ち出しているという意味だ。対照的に、
日本維新の会は「偽りの第三極」の様相が露呈しつつある。「偽り」とは、確
固たるビジョンを持たないこと。世間受けする政策を掲げてはすげ替え、保守
層も脱原発票も欲しがっている印象だ。石原慎太郎代表の考えと党の公約が一
致しているかも疑問だ。
「未来」が発表した「びわこ宣言」は「経済性だけで原子力政策を推進する
ことは、国家としての品格を失い、地球倫理上も許されない」と述べている。
非常にわかりやすく、国民の切なる願いに応えようという姿勢を感じる。官邸
前や経団連前などで脱原発デモが続いている。「未来」はこのような動きと連
動し、選挙後は原発政策の決定過程に大きく影響するポジションを得る可能性
がある。これまで投票率の低かった若い世代が「未来」に関心を示せば、イタ
リアの「オリーブの木」のように、政党連合への躍進もありうる。
確かに、自民を除く他の政党も、脱原発を打ち出してはいる。しかし民主
はマニフェスト破りの過去があり、政権与党として脱原発への踏み込んだ具体
的プロセスを提示できていない。社民、共産に投票しても実効性があるのか疑
問に思う有権者も少なくない。
「シングルイシューで政党が成り立つのか」という批判が出ているが、原発
以外の基本政策も、消費増税の凍結、雇用の拡大、TPP交渉入り反対など明
快だ。エネルギー問題は国の最重要課題なので、そこで一致する政治家が集ま
るのは野合ではない。
懸念材料があるとすれば、「船頭多くして船山に上がる」。つまり選挙後
リーダーシップをめぐる派閥争いが起き、党が空中分解するおそれだろう。
結党の原点を忘れないことが重要で、嘉田代表の手腕が問われる。
┏┓
┗■4.<テント日誌12/5―経産前省テントひろば462日目>
│ 深夜のテントに伝えられた死
└────(M/O)
師走の選挙、さぞ街は騒がしいことだろうと想像するが意外に静かである。
例によってメディアは騒いでいるが、人々の気持ちは冷静なのである。これは
冷静というよりは醒めているというべきなのかもしれない。三年前の政権交代
のかかった選挙への期待が裏切られた気分に変わっているところが大きいのだ。
これは簡単には解消しない。アメリカの大統領選挙にも見られた光景であった。
寒さのきつくなったテントの中で談笑しているところに電話がきた。午後の
11時も少しを回ったところであろうか。Yさんが危ない。持ちそうもないとい
う連絡だった。Yさんは先週の終わりころに脳内出血で倒れ大阪で入院してい
た。突然の知らせに場は一瞬シーンとなった。ポツリポツリと彼のことが話だ
されていた。11時半も過ぎたころには亡くなったという知らせが届いた。重た
い気分の中で臨場の通夜のようなことになった。
テントに関係していた人たちのうちで亡くなったのはこれで四人目である。
もちろん、これは私たちが知っていて、比較的身近な人でという意味である。
私たちの知らないところで亡くなった方もおられるのかもしれないが、この四
人はテントに出入りし、よく知られた人たちである。
彼らは私たちのこころにどこか重いしこりのようなものを残して行った。Y
さんもまた。彼はふっと私たちの中に訪れてその生前の姿や表情で何かを思い
起こさせるのだと思う。そして私たちはそこで何事か話し語る。相手ならざる
相手に向かって、いや自分に向かってである。
Yさんとは「9条改憲阻止の会」からの付き合いなのであるが、彼は大阪の
グループから派遣されているような形で活動をしていた。笑顔が人の警戒を解
くところもあり、人懐こさもあって人気があった。
3・11以降はテントの立つ前まで私たちは福島の子供たちに箱根や御殿場の
水や野菜・果物を運ぶ活動をしていた。彼はその中心的なメンバーの一人であ
って箱根や伊豆に、また福島に出掛けていた。そしてよく車の中でかつての活
動についてあれこれ話をした。これらはとても興味深いものであった。
彼はおくびにも出さなかったけれど、ある時代の闘いに中での挫折を背負っ
ていて日々を再起という形で関わっていたのだと推察されるところがあった。
人は他者からは想像できないような挫折や屈折、あるいは言葉にならならい世
界を背負っているものであるが、それを短い付き会いの中で感得させるような
ところがあった。それは彼の人柄と言っていいとのだろがそれだけに得難い人
だったのだと思う。
昨年の9月11日にテントが出来てから彼はあたかも主のような存在であった。
テントの奥に座り込んでいたが彼が居る事で安心めいたものを周囲に与えてい
たのである。テントの初期はこれがどのように存続できるのか見通しも立ち難
い中で、権力側との緊張感は強かった。だから、テントを支える面々には心的
な重圧のかかる日々だった。個々が想像し、自分なりの闘いでテントを支える
と覚悟するしかなかったのであるが、彼はそれを言葉少なく引き受けていて周
りには力強い存在となっていた。
なかなか、宿泊態勢も整わない日々の中で彼はその多くを背負っていたのだ。
彼にはこのテントひろばをつくり維持していくことが、かつての運動を超えて
行くことであると考えられていたのかもしれない。そんな希望が彼の腰の据わ
った行動にはあったのだろうと思う。
彼とは脱原発の運動で全国にテントが出現して、テントで繋がるようなこと
があるといいなとよく話しあった。デモや集会という意思表示の伝統的な形態
に併行してもう一つの陣地戦的な運動形態が出現することを望んでいたのだろ
うか。脱原発の運動が長期的である必然の中でその運動的なありようを考えて
いたのだと思う。
彼には経産省前のテントが持続するだけでなく、社会《生活や地域の場》に
向かって降りて行き、またそこから出てくる運動の契機になることがイメージ
されていたのではないかと推察する。テントはその出発であることが意識され
ていたのだと思う。脱原発の運動が本当の意味で国民的運動になって行くイ
メージを話し合ったが、テントが全国に出現するのはその一つだったのだ。
彼は大飯での原発再稼働の日程が浮上するや、大飯の現地にテントを張った。
彼は経産省前テントから活動場を大飯に移しその中心として活動した。最初は
港の近くで張られたテントは大飯の丸山公園に移ってから本格的なものになっ
た。
このテント村を訪れた時には彼は嬉しそうな様子で説明してくれた。経産省
前テントとは幾分か様子は違っていたが、それを語るかれの表情は生き生きと
していた。大飯現地での再稼働をめぐる闘いにおいて彼の果たした役割は大き
なものがあったと思う。そしてこれは大阪でのテントに引き継がれて行ったし、
彼はまたそこでもまた精神的主柱のような存在だったのではないか。
彼にしてみれば経産省前のテントひろばから得たものを次の場で実践し、今
後の再稼働をめぐる運動や闘いのあり方を示唆するものを生みだしたのだと思
う。いつか福島県庁前にテントひろばが出来るといいなと話しあったこともあ
るが、持続的で社会の深部に向かう闘いを願っていた彼の一端は実現されたの
だ。
私たちは一種の敗戦とでも言うべき場所にいつの間にか追いつめられている
と感じる他ない日々の中で、安倍が提起した憲法改正の動きに危機感を持って
再結集のような形で集まった。その中で私たちは出会った。
あれから、国会前の座り込み等いろいろとやってきた。濃霧に遮られたよう
な視界の切り開けない時代の中で闘ってきた。多くの時を過ごす中で気になっ
ていたのは生き急ぐような彼の姿勢だった。周りの誰もが気がつきながらも、
また、誰も止められなかったことだ。
これには悔いも残るが、でもこれはどうしょうもなかった。ただ、彼はよく
生きよく闘ったという、周りの者の偽らざる感想がこれに対する救いなのか知
れないと思うこともある。言いわけかもしれないが…
Yさんよ、私たちは偶然の契機で出会い、偶然のように別れて行く。しかし、
その中で何かが残る。それは人の生の中で生き続ける。別れは様々だが死とい
う別れだって同じだよね。君のことは私の中で時に思い出すようにしかないの
だとしても、君の笑顔が忘れ難いように君のことも忘れ難いと思う。
ただ、今はやはり君と出会えたことをありがとうという言葉でしかいえない。
ほんとにありがとう。私の心に扉はない、かつてに来てくれてひと時を過ごし
てくれたらこんな嬉しいことはないと思う。私が呼び出すのだとしても同じ事
だ。
テントに訪れた愛媛大学の先生と話したことを記したかったのであるが、
訃報に接してのこんな風になってしまった。これはまたの機会に。
(M/O)
2012年12月7日(金)その2 地震と原発事故情報-4つの情報をお知らせします
転送歓迎
━━━━━━━
★1.大飯原発を止めさせるポイント(たんぽぽ舎 槌田敦)
★2.原発を続けるのか、やめるのか?
「原発をやめる人と政党を」全力で応援しよう!(たんぽぽ舎 柳田真)
★3.新聞・雑誌から
◇「嘉田新党」を考える
「真の第三極」が現れた。「偽りの第三極」ではなく。
(12月3日 毎日新聞「特集ワイド」より)
★4.<テント日誌12/5―経産前省テントひろば462日目>
深夜のテントに伝えられた死(M/O)
━━━━━━━
┏┓
┗■1.大飯原発を止めさせるポイント
└────(2012年12月9日 たんぽぽ舎 槌田敦)
日本の原発54基の内、大飯原発の2基だけが運転している。なんとしてでも、
原発を維持したい連中の執念の現れである。それだけに無理が目立つ。
現在の攻防戦は、「原発の直下に活断層があるのかどうか」をめぐってなされ
ている。それは、もしもこれが動けば、原子炉の配管が千切れるからである。
しかしながら、活断層かどうかの決め手が分かり難い。
断層の上に乗っている土砂の状態(生成年数など)から判断するのだが、この
調査を関電がするのでは、泥棒に縄をなわせるようなものだ。関電は故意に間
違えたことにして、結論を先送りさせている。このようにして、来年8月の定期
検査終了まで運転を続けるつもりでいる。活断層問題は、関電の巧妙な戦術に
乗せられている。
地震の問題は、活断層だけが問題ではない。今回の福島事故は、遠方の太平
洋沖の地震で起こった。これによって原発がどのように破損したかが、福島事
故の出発点である。ところが、4つの事故調はともにその事故経過を曖昧にし
ている。
たとえば、福島原発1号機の水素爆発では、この原因となった水素は地震に
よる配管破断で漏れ出した水素ということになると、原子炉の地震による安全
性の主張は根底から覆えされる。大飯原発の場合に、遠方の地震で配管が破断
するのかどうか、検討がなされる必要がある。しかし、これが棚上げされてい
る。
福島の事故で、福島や郡山の市民が大量被曝した原因は、格納容器のベント
(排気)である。そもそも格納容器とは、第四の壁であり、これで放射能の放出を
防ぐ容器である。燃料ペレットの壁、燃料被覆管の壁、原子炉圧力容器の壁の
3つが壊れても、第四の格納容器の壁で防ぐというのが、原子炉安全の考え方
であった。ところが、福島事故では、格納容器の圧力が高くなって破裂すると
いうので、ベント(排気)した。安全思想の崩壊である。
その対策でもっとも有効な方法は、同じ大きさの第二格納容器をつくって格
納容器の圧力を半減し、水で冷却することである。しかし、これには金がかか
る。そこでフィルターを使って、放射能を吸着させてから排気筒から大気に放
出するという。
しかし、この建設には時間がかかるとして、今回の運転再開では無視された。
つまり、福島事故は考慮の外である。大飯ではベントで放射能を除けないのだ
から、その運転再開は無謀である。
福島原発事故で、作業員を退避させないで済んだのは、放射能対策をした免
震事務(重要)棟があったからである。これは柏崎地震(2007年)で、余震の最中
に職員の作業する場所がなかったため、東電は免震事務棟を福島に建設した。
それが完成したのは地震の半年前で間に合った。ところが、関電にはこの免震
事務棟はない。それなのに運転再開した。関電と民主党政府は福島事故から学
んだことも無視して、大飯の運転を再開した。
そして、福島事故は原発から50キロも離れた郡山市、福島市の人達に、放射
線作業従事者の被曝水準(年間1ミリシーベルト)をはるかに超える被曝をさせ
た。しかし、維新の橋下は土壇場の5月末に「豹変」し、福井県、滋賀県だけで
なく大阪府や京都府も放射能が襲う運転再開を容認した。維新の「脱原発」はま
やかしである。この「決断」を受けて民主党政府は、大飯の運転を許可したので
あった。
未来の党を中心にして原発に賛成しない政党に期待しよう。
衆議院選挙の判断基準は、
「民主にはガッカリ、自民にはコリゴリ、そして維新のウラギリ」だ。
┏┓
┗■2.原発を続けるのか、やめるのか?
│ 今回の衆院選と都知事選の最大争点
│ -「原発をやめる人と政党を」 全力で応援しよう!-
└────(たんぽぽ舎 柳田真)
今回の選挙は昨年の3.11原発大震災を経て、はじめての国政選挙。プラ
ス都知事選挙。選挙の最大争点は、原発を続けるかやめるか、どちらを選ぶか
です。あの原発大災害を経てもなお、原発を続けることは異常です。子ども=
未来への罪悪だと思います。次の地震が来て、第二の大災害が起きれば、日本
は崩壊するでしょう。生命、土地あっての経済です。生命も土地も放射能汚染
されてどうして「経済」が成り立つのですか?
都知事選と衆院選では原発ゼロを主張する人と政党を応援しよう!
┏┓
┗■3.新聞・雑誌から
└────
◆「嘉田新党」を考える
「真の第三極」が現れた。 「偽りの第三極」ではなく。
(12月3日 毎日新聞「特集ワイド」より)
「真の第三極」が現れたと言えるだろう。「真の」とは、脱原発を求める国
民の声に寄り添い、将来のビジョンを打ち出しているという意味だ。対照的に、
日本維新の会は「偽りの第三極」の様相が露呈しつつある。「偽り」とは、確
固たるビジョンを持たないこと。世間受けする政策を掲げてはすげ替え、保守
層も脱原発票も欲しがっている印象だ。石原慎太郎代表の考えと党の公約が一
致しているかも疑問だ。
「未来」が発表した「びわこ宣言」は「経済性だけで原子力政策を推進する
ことは、国家としての品格を失い、地球倫理上も許されない」と述べている。
非常にわかりやすく、国民の切なる願いに応えようという姿勢を感じる。官邸
前や経団連前などで脱原発デモが続いている。「未来」はこのような動きと連
動し、選挙後は原発政策の決定過程に大きく影響するポジションを得る可能性
がある。これまで投票率の低かった若い世代が「未来」に関心を示せば、イタ
リアの「オリーブの木」のように、政党連合への躍進もありうる。
確かに、自民を除く他の政党も、脱原発を打ち出してはいる。しかし民主
はマニフェスト破りの過去があり、政権与党として脱原発への踏み込んだ具体
的プロセスを提示できていない。社民、共産に投票しても実効性があるのか疑
問に思う有権者も少なくない。
「シングルイシューで政党が成り立つのか」という批判が出ているが、原発
以外の基本政策も、消費増税の凍結、雇用の拡大、TPP交渉入り反対など明
快だ。エネルギー問題は国の最重要課題なので、そこで一致する政治家が集ま
るのは野合ではない。
懸念材料があるとすれば、「船頭多くして船山に上がる」。つまり選挙後
リーダーシップをめぐる派閥争いが起き、党が空中分解するおそれだろう。
結党の原点を忘れないことが重要で、嘉田代表の手腕が問われる。
┏┓
┗■4.<テント日誌12/5―経産前省テントひろば462日目>
│ 深夜のテントに伝えられた死
└────(M/O)
師走の選挙、さぞ街は騒がしいことだろうと想像するが意外に静かである。
例によってメディアは騒いでいるが、人々の気持ちは冷静なのである。これは
冷静というよりは醒めているというべきなのかもしれない。三年前の政権交代
のかかった選挙への期待が裏切られた気分に変わっているところが大きいのだ。
これは簡単には解消しない。アメリカの大統領選挙にも見られた光景であった。
寒さのきつくなったテントの中で談笑しているところに電話がきた。午後の
11時も少しを回ったところであろうか。Yさんが危ない。持ちそうもないとい
う連絡だった。Yさんは先週の終わりころに脳内出血で倒れ大阪で入院してい
た。突然の知らせに場は一瞬シーンとなった。ポツリポツリと彼のことが話だ
されていた。11時半も過ぎたころには亡くなったという知らせが届いた。重た
い気分の中で臨場の通夜のようなことになった。
テントに関係していた人たちのうちで亡くなったのはこれで四人目である。
もちろん、これは私たちが知っていて、比較的身近な人でという意味である。
私たちの知らないところで亡くなった方もおられるのかもしれないが、この四
人はテントに出入りし、よく知られた人たちである。
彼らは私たちのこころにどこか重いしこりのようなものを残して行った。Y
さんもまた。彼はふっと私たちの中に訪れてその生前の姿や表情で何かを思い
起こさせるのだと思う。そして私たちはそこで何事か話し語る。相手ならざる
相手に向かって、いや自分に向かってである。
Yさんとは「9条改憲阻止の会」からの付き合いなのであるが、彼は大阪の
グループから派遣されているような形で活動をしていた。笑顔が人の警戒を解
くところもあり、人懐こさもあって人気があった。
3・11以降はテントの立つ前まで私たちは福島の子供たちに箱根や御殿場の
水や野菜・果物を運ぶ活動をしていた。彼はその中心的なメンバーの一人であ
って箱根や伊豆に、また福島に出掛けていた。そしてよく車の中でかつての活
動についてあれこれ話をした。これらはとても興味深いものであった。
彼はおくびにも出さなかったけれど、ある時代の闘いに中での挫折を背負っ
ていて日々を再起という形で関わっていたのだと推察されるところがあった。
人は他者からは想像できないような挫折や屈折、あるいは言葉にならならい世
界を背負っているものであるが、それを短い付き会いの中で感得させるような
ところがあった。それは彼の人柄と言っていいとのだろがそれだけに得難い人
だったのだと思う。
昨年の9月11日にテントが出来てから彼はあたかも主のような存在であった。
テントの奥に座り込んでいたが彼が居る事で安心めいたものを周囲に与えてい
たのである。テントの初期はこれがどのように存続できるのか見通しも立ち難
い中で、権力側との緊張感は強かった。だから、テントを支える面々には心的
な重圧のかかる日々だった。個々が想像し、自分なりの闘いでテントを支える
と覚悟するしかなかったのであるが、彼はそれを言葉少なく引き受けていて周
りには力強い存在となっていた。
なかなか、宿泊態勢も整わない日々の中で彼はその多くを背負っていたのだ。
彼にはこのテントひろばをつくり維持していくことが、かつての運動を超えて
行くことであると考えられていたのかもしれない。そんな希望が彼の腰の据わ
った行動にはあったのだろうと思う。
彼とは脱原発の運動で全国にテントが出現して、テントで繋がるようなこと
があるといいなとよく話しあった。デモや集会という意思表示の伝統的な形態
に併行してもう一つの陣地戦的な運動形態が出現することを望んでいたのだろ
うか。脱原発の運動が長期的である必然の中でその運動的なありようを考えて
いたのだと思う。
彼には経産省前のテントが持続するだけでなく、社会《生活や地域の場》に
向かって降りて行き、またそこから出てくる運動の契機になることがイメージ
されていたのではないかと推察する。テントはその出発であることが意識され
ていたのだと思う。脱原発の運動が本当の意味で国民的運動になって行くイ
メージを話し合ったが、テントが全国に出現するのはその一つだったのだ。
彼は大飯での原発再稼働の日程が浮上するや、大飯の現地にテントを張った。
彼は経産省前テントから活動場を大飯に移しその中心として活動した。最初は
港の近くで張られたテントは大飯の丸山公園に移ってから本格的なものになっ
た。
このテント村を訪れた時には彼は嬉しそうな様子で説明してくれた。経産省
前テントとは幾分か様子は違っていたが、それを語るかれの表情は生き生きと
していた。大飯現地での再稼働をめぐる闘いにおいて彼の果たした役割は大き
なものがあったと思う。そしてこれは大阪でのテントに引き継がれて行ったし、
彼はまたそこでもまた精神的主柱のような存在だったのではないか。
彼にしてみれば経産省前のテントひろばから得たものを次の場で実践し、今
後の再稼働をめぐる運動や闘いのあり方を示唆するものを生みだしたのだと思
う。いつか福島県庁前にテントひろばが出来るといいなと話しあったこともあ
るが、持続的で社会の深部に向かう闘いを願っていた彼の一端は実現されたの
だ。
私たちは一種の敗戦とでも言うべき場所にいつの間にか追いつめられている
と感じる他ない日々の中で、安倍が提起した憲法改正の動きに危機感を持って
再結集のような形で集まった。その中で私たちは出会った。
あれから、国会前の座り込み等いろいろとやってきた。濃霧に遮られたよう
な視界の切り開けない時代の中で闘ってきた。多くの時を過ごす中で気になっ
ていたのは生き急ぐような彼の姿勢だった。周りの誰もが気がつきながらも、
また、誰も止められなかったことだ。
これには悔いも残るが、でもこれはどうしょうもなかった。ただ、彼はよく
生きよく闘ったという、周りの者の偽らざる感想がこれに対する救いなのか知
れないと思うこともある。言いわけかもしれないが…
Yさんよ、私たちは偶然の契機で出会い、偶然のように別れて行く。しかし、
その中で何かが残る。それは人の生の中で生き続ける。別れは様々だが死とい
う別れだって同じだよね。君のことは私の中で時に思い出すようにしかないの
だとしても、君の笑顔が忘れ難いように君のことも忘れ難いと思う。
ただ、今はやはり君と出会えたことをありがとうという言葉でしかいえない。
ほんとにありがとう。私の心に扉はない、かつてに来てくれてひと時を過ごし
てくれたらこんな嬉しいことはないと思う。私が呼び出すのだとしても同じ事
だ。
テントに訪れた愛媛大学の先生と話したことを記したかったのであるが、
訃報に接してのこんな風になってしまった。これはまたの機会に。
(M/O)
PR